Se connecter午後二時過ぎ、蓮司が訪れたのは、都内にある小児リハビリテーション支援施設だった。
御堂ライフスタイルが直接運営に関わっている場所ではない。MIOが活動休止以前から衣料提供や素材開発に協力してきた施設の一つであり、今回の共同事業を進めるにあたって、実際の使用現場を見たいという名目で片桐が急きょ視察を調整した。
建物そのものは、蓮司が想像していた病院らしい無機質さとは少し違っていた。広い窓から午後の日差しが入り、廊下の壁には子供たちが描いた絵や季節の飾りが並んでいる。消毒薬の匂いはするが、それよりも食堂から漂ってくる甘いパンの香りの方が強かった。
「こちらです」
施設長の案内で、蓮司と片桐は衣料支援室へ入った。
壁際には年齢も用途も違う服が並んでいる。見た目はごく普通のシャツやパーカー、ワンピースだが、よく見るとボタンの位置や縫い目、袖口の形が市販品とは少し違っていた。
「これが
第27話 佐伯先生 翌朝、澪が目を覚ました時には、スマートフォンの通知が百件を超えていた。 昨夜は蓮司との約束通り、帰宅してから仕事を開かなかった。久我から届いた「モデルは点滴後に症状改善、帰宅可能」という連絡だけを確認し、久しぶりに日付が変わる前にベッドへ入った。 その結果、朝になって現実がまとめて押し寄せてきた。『MIOは現役医師?』『病院で「佐伯先生」と呼ばれる世界的デザイナー』『医学論文に同姓同名の研究者、本人なのか』『形成再建外科とMIOの医療衣料、その意外な接点』 見出しだけならまだ推測の域を出ていない。昨日病院にいた人間がSNSへ書き込んだらしく、昔の学会記録や論文を探し出した者がいるものの、顔写真の残っていない資料も多く、アルカディアも病院も本人確認には応じていなかった。 それでも、時間の問題だと澪には分かった。「思ったより早いなあ……」 ベッドの上で呟き、髪を掻き上げる。 秘密を守りたいというより、順番の問題だった。 MIOとして戻ったばかりだ。 離婚協議も終わっていない。 臨床へ本格的に戻るかどうかさえ、自分で決めていない。 そんな状態で「天才外科医MIO」などという分かりやすい看板を世間に作られるのは、ひどく落ち着かなかった。 スマートフォンが鳴る。 神崎だった。「おはようございます」『声を聞く限り、寝ましたね』「第一声がそれですか」『昨日休めと言った人間としては重要です。ネットは見ました?』「今見ています」『アルカディア広報は、現時点で医療経歴についてコメントしません。MIOとして発表済みの活動だけ回答します』
第26話 あなた、医者なの? 東都国際医療センターへ着いた頃には、撮影スタジオを出てから三十分近くが経っていた。 澪は車が正面玄関へ着く前に、久我から届いたメッセージをもう一度確認した。『意識清明。循環動態は安定。重篤な不整脈なし。採血結果待ちです。現時点では脱水、鉄欠乏性貧血、摂取不足が主因として考えやすいですが、念のため経過観察します』 少なくとも命に関わる状態ではない。 その一文を頭の中で確認して、ようやく肩の力が少し抜けた。「状態は?」 隣から蓮司が尋ねる。「今のところ安定しています。重い心臓の異常も見つかっていないそうです」「そうか」 蓮司も明らかに安堵した。 撮影中に倒れたのはアルカディア側が手配したモデルだが、御堂ライフスタイルとの共同事業で起きた事故でもある。会社として病院まで来ること自体は不自然ではない。 ただ、蓮司がわざわざ自分と同じ車へ乗る必要まではなかった。「ここからは私だけでも大丈夫ですよ」 澪が言うと、蓮司は窓の外を見たまま答えた。「会社として説明を聞いてから帰る」「本当に半分は仕事なんですね」「残り半分ももう言っただろ」「心配だから?」「ああ」 最近は、こちらが困るくらい素直だ。 澪はそれ以上何も言わず、車が停止するのを待った。 病院の自動扉を抜けた途端、独特の空気が身体にまとわりつく。 消毒薬の匂い。 低く抑えられた話し声。 遠くから聞こえるストレッチャーの車輪の音。 案内表示。 白衣。 ナース
第25話 倒れたモデル 翌朝八時、撮影スタジオにはすでに大勢のスタッフが集まっていた。 アルカディアと御堂ライフスタイルの共同ブランド、その新作を使った最初の大規模な広告撮影である。白い壁と高い天井に囲まれたスタジオには照明機材が並び、衣装ラックの間をスタイリストやメイク担当者が忙しく行き来していた。 澪は予定より三十分早く入り、昨夜手直しした衣装を一着ずつ確認していた。「右肩、もう一度上げてみてください」 昨日、着用時の違和感を訴えたモデルが腕を上げる。「どうですか?」「昨日より全然いいです。引っかかりません」「痛みは?」「ないです」「なら大丈夫そうですね」 澪は縫い目へ指を滑らせ、念のため本人が腕を前後へ動かすところまで確認した。 見た目だけ美しくても意味がない。 写真では一瞬しか残らなくても、その一瞬のために着る人間が苦痛を我慢する服を作りたいわけではなかった。「澪さん」 背後からスタッフに呼ばれる。「御堂ライフスタイルの皆さんがお見えです」「もう?」「九時予定だったんですが、社長も一緒です」 澪の手が止まった。「蓮司さんも?」「はい」 共同事業の最初の広告撮影なのだから、社長が視察に来てもおかしくはない。 おかしくはないのだが。「仕事です」 自分に言い聞かせるように呟くと、隣のスタイリストが不思議そうに振り向いた。「何がです?」「何でもありません」 数分後、蓮司は片桐と商品開発担当者を連れてスタジオへ入ってきた。 澪と目が合う。「おはよ
第24話 後悔の始まり 澪との協議を終えて社長室へ戻った蓮司は、机の上に置かれた書類を一枚も読めないまま、十分以上同じページを眺めていた。 普段なら考え事を抱えていても、仕事を始めれば頭は切り替わる。数字は数字として処理し、判断すべきことを先送りにはしない。それができるから、この年齢で御堂ライフスタイルを任されてきた。 しかし今日は駄目だった。『離婚は撤回しません』 澪の声が、何度も戻ってくる。 冷たく突き放されたわけではない。 むしろ逆だった。 自分が変わり始めたことを認めてくれた。嬉しいとも言ってくれた。別の女を好きになるのは嫌だとまで言った。 それでも、離婚する。 その事実が、蓮司にはまだうまく理解できなかった。 仕事なら、改善が認められたなら次の機会がある。 失敗の原因を修正し、相手の要求を満たせば、交渉を続けられる。 だが結婚は違うらしい。 今から正しいことをしたからといって、それまでの三年間が帳消しになるわけではない。 むしろ澪は、今の自分を見ているからこそ離婚したいと言った。 夫婦という形から一度離れなければ、この変化が本物なのか分からない。 理屈としては理解できる。 感情は、まったく納得していなかった。「社長」 片桐の声で、蓮司はようやく顔を上げた。「何だ」「同じページを十五分ほどご覧になっています」「見ているだけだ」「読んではいらっしゃらないようですが」「お前は監視員か」「秘書です。十五時の経営会議が五分後ですので、一応お知らせしました」 蓮司は腕時計を見る。 本当に五分前
第23話 離婚は撤回しません 三日後、二度目の正式な離婚協議が行われた。 場所は前回と同じ、御堂ライフスタイル本社の来客用会議室だった。 窓の外には秋晴れの東京が広がり、遠くのビルまでくっきり見える。澪は星野弁護士と並んで座りながら、テーブルの上に置かれた合意書案を一枚ずつ確認していた。 財産分与については、澪が請求しない意思を明確にした上で、将来的な争いが起こらないよう文言が整えられている。御堂家から贈られた宝飾品や衣類についても、所有権の確認が済んだ。婚姻中に共同名義で取得した不動産はなく、子供もいない。 法律上だけを見れば、二人の離婚は驚くほど簡単だった。 難しいのは、紙に書けない部分ばかりだ。「こちらについては、双方異議なしということでよろしいでしょうか」 星野が尋ねると、蓮司側の藤原弁護士が頷いた。「問題ありません」「御堂さんも?」「ああ」 蓮司は短く答えた。 今日は仕事の時と同じ濃い色のスーツを着ている。表情も落ち着いているが、机の端に置かれた離婚届には、まだ署名がない。 澪はそこを見ないようにしていた。 合意書がまとまれば、残るのは署名だけになる。 蓮司が書けば終わる。 書かなければ、さらに話し合うことになる。「では最後に、届出時期について確認しましょう」 藤原が言った。 やはりそこへ来る。「佐伯さん側は、合意書締結後できるだけ早く、というご希望で変更ありませんか」「ありません」 澪は迷わず答えた。 蓮司の指が僅かに動いた。「御堂さんは?」 藤原に尋ねられ、蓮司は数秒黙っていた。「その前に、一つだけ澪
第22話 愛されたかっただけ 御堂邸から私物を持ち帰った翌朝、澪はいつもより早く目を覚ました。 まだ外は薄暗く、カーテンの隙間から見える空には夜の色が残っている。二度寝をするには中途半端な時刻だったが、頭だけは妙に冴えていた。 昨夜の会話が、何度も浮かんでくる。『君は、どんな人なんだ』 三年間、欲しかった問いだった。 だから嬉しかった。 同じくらい、腹も立った。 欲しかった言葉は、欲しかった時に届かなければ、それだけで傷になることがある。けれど、遅れて届いたからといって価値がなくなるわけでもない。 そこが厄介だった。 澪はベッドから出ると、まだ冷たい床を踏んでキッチンへ向かった。自分一人のために湯を沸かし、コーヒー豆を挽く。結婚中は蓮司の体調に合わせて豆を変えていたが、今は自分の好きな酸味のあるものを選んでいる。 カップへ湯を注ぎながら、ふと笑ってしまった。「私、これが好きだったんだ」 誰かに合わせる必要がなくなってから、ようやく自分の好みを思い出すことが増えた。 コーヒーは少し酸味がある方が好き。 朝はパンより米。 休日には予定を詰めたくない。 高級なレストランより、小さくて静かな店の方が落ち着く。 雨の日は嫌いではない。 花なら薔薇より白い小花が好き。 そんな小さなことを、蓮司はほとんど知らない。 だが同時に、澪自身も結婚生活の中でそれをほとんど口にしてこなかった。 蓮司が聞かなかった。 澪も言わなかった。 その結果、「御堂澪」という妻だけが出来上がり、その中にいた佐伯澪は少しずつ見えなくなった。 スマートフォンが振動した。 神崎から







